2月2011

ナルニア国物語を見て

オフ

昨日テレビでやってました。
まぁ海外の映画でよくあるのですが、「なんでそこでそれを優先する?」という感じの、日本人には(少なくとも私にとっては)わかりにくい流れもありました。

話の中間くらいで一度主人公側は戦争に負けるのですが、大将格のAという人物とBという人物の2人のミスがありました。
以下どちらが組織にとって受け入れられないでしょうか。

(前段階として)
そもそもその戦争を仕掛けるかどうかの論争があった。
Aは「こちらから仕掛けるべきだ」、Bは「こちらの陣地にこもって守るべきだ」と言い争ったが、結局仕掛ける事になった。Bは結論が出ても不満そうではあったが、これが敗戦後の言い争いの原因にもなる。

そして、改めて戦争の説明。
相手の城に奇襲で攻め込むのですが、基本的にAの役割が大将、決断する人です。Bはもともとその城を良く知っている事もあり、先に潜入して城門を開くという役割。
夜中に首尾よく何人かで城に潜り込んだまでは順調だったのですが、ここから大敗戦につながるミスが2つ起きます。

・1つ目
Bは真っ先に城門を開けなければならなかったが、城に閉じ込められていた自分の恩師を助けたり、自分の父親を殺された復讐を優先してしまい、城門を開けるのが遅れた。
・2つ目
城門を開けるのが遅れたため 、主人公側の軍勢が城に突入する前に相手に知られてしまった。Aはそこで撤退するか強引に攻め込むかの判断を迫られ、(多分自分が戦争を仕掛ける事を決めたため、それにこだわり)強引に攻める事を選択。

結局、相手が準備をしてしまい仲間のほぼ半数を失うほどの敗戦をしてしまう訳ですが、組織としてこの2つのミスのどちらが受け入れられないでしょうか。 

私の答えは簡単で、1つ目(Bの)ミスの方が圧倒的に受け入れられません。
このミスは、組織としての最優先事項を自分の都合や感情で破るということをしています。戦争とそれ以外を天秤にかけています。いくら始める前に論争があっても、一度決定したなら実行段階では迷わず進めないといけないと感じます。また、 恩師や身内といったことは自分自身だけのことで、自分の行動で何百・何千といった部下を危ない目にさらす事は許せません。もし自分の都合を優先するかもしれない可能性があるのなら、最初からその役割を引き受けるべきではありませんでした。

2つ目(Aの)ミスは、これも大きなミスですが、基本的には能力不足に起因しています。城門を開けるのが遅くなっても「これは無理だ」と感じて早く撤退していれば、大きな損失は出なかったでしょう。能力の不足やプライドが判断ミスを招いた訳ですが、基本的には戦争をどうするかを考えています。

この2つを組織としてみた場合、自分が使いにくいのはBです。何故なら計算が立たないからです。
決定した事を実行段階で反古にされたら、それまで考えていた事が全くの白紙になります。能力不足で実行段階で止まってしまったらフォローできるように思います。
(このあたりは結構感覚です)

でも、(アメリカ映画では多いですが)映画でこんなに普通にこの選択が取り上げられていて、その後仲間にもそれについてあれこれ言われる事もなく最後は大団円で締めるということは、あちらの国の価値観では、Bの選択もそんなに無茶苦茶ということでも無いのでしょうか。
私だったら二度と口をききません(笑)
Aはありです、私の中で。今後がんばっていきましょうねと感じます。

皆さんは、この事例を見てどう思うでしょうか。 


後輩への教育に関して

仕事(おもに医療)

年を取ってくると後輩や部下に対して、教育・指導を行うことがでてくる。
昔自分が研修医だったり、ビジネスの世界に入ったばかりの時には教えてもらうばかりだったけど、最近は年下の人と会うことも多い。

そういった時に教育、とまではいかないけれども何かを伝えたいときにどういう話し方をすればよいのか、いつも考えながら話している。
教えてもらう立場だった時は、「自分のこと棚にあげてコイツ何言っとんねん、、、」とか正直思ってたりした。中学生過ぎたぐらいのときから先生や親に対して、「自分も出来んやろそれ」と反抗していた。
でも今思うと、自分が出来なくても人に指導しなくてはいけない事は多々ある。そういった意味で研修医の同期の一人には「あの時点で教える方の気持ちがわかってたんだなぁ」と感心する。 

で、自分が指導する方に回ってみて、自分ができなくてもやってもらわなくては困る事は多い。そういった時にどうやって納得してもらうのか。
自分の性格からして、立場であったり、年齢で強制的に上から押さえつけるのは絶対嫌だ、と思う。
組織としてのビジョンを示して、「あなたの役割はこれで、それはとても重要で、これぐらいのクオリティが必要になる」ということを丁寧に説明していくしかないだろう。
そこにモチベーションマネジメントの問題もきっと入ってくる。

少し前提が違うかもしれないが、プロスポーツ選手ってきっとプライド高いだろうから、教える方はかなり気を使うと思う。
日本では、昔の名選手が監督やコーチをしていることが多いのは、上手な人に教えられるのは抵抗がない、というのが大きいんだろう。あと、体育会系の上下関係ね。

それに引き換え、海外では現役時代に名選手ではなかった人がベースボールにしてもサッカーにしても名監督、名コーチになっている。あれには、監督・コーチ側と選手側の両方に、どうしてなんだろう?という疑問がわく。
監督・コーチ側:どうやって教えられる側の気持ちを納得させているのか?理論を極めるのはもちろんとして、選手の気持ちを把握する術に長けていないととても出来ないと思う
選手側: 現役時代明らかに自分より出来なかった人に教わるのはどういう気持ちか。それでも付いていく理由は?

海外では年功序列って日本ほどではないと思うし、あの形式が成り立つ理由がきっとあると思う。そして個人の教育・指導の問題だけではなく、これからの日本の組織にとってもその理由は重要であるに違いない。
何故ならこれまでの人が生きてきた定石はこれからはきっと通用しないから。それにも関わらず部下を抱えないといけないから。
どうやって自分より年下だったり立場が下だけど、現在に関連する情報や感性が豊かな人たちをまとめて結果をだしていくか。
それこそが今の30代後半以降の人に求められている事だろう。 


機会の平等の話

オフ

機会の平等が重要であって結果の平等は各人の努力の結果である、そういう議論を聞くことが多い。私もずっとそう思っている。
だけど疑問に思うことが無い訳ではない。
思うに日本は基本的にすごく平等な社会だし、貧しくてもちょっと調べれば高校なり大学なりの奨学金や授業料免除の情報はたくさんあるし、頑張ればなんとかなる社会、という理想を極限まで高めようとしているし、実際そうなってきていると思う。
階級社会でもないし、あらゆる職業は全ての人に開かれている。

それでは何故いま閉塞感が漂っているのだろうか。
もちろん日本が人口・GDP・企業価値といった分野で芳しくないということもあると思う。
しかし、このまま本当に完璧に機会の平等が成されれば、逆に本気で頑張る人が少なくなるのでは、と思うことがある。
あまりに機会がオープンになりすぎた為に、個人の能力が最大限発揮できない社会になっている可能性があるのではないか。

完璧に機会の平等が保証された世界では、もし何かが成し遂げられなかった場合(例えばxx大学に入りたい、xx株式会社に入りたい、はたまた単純に金持ちになりたい、等)、自分の能力が無かったのか努力が足りなかったという結論になってしまう。
つまり言い訳のきかない社会になってしまうということだ。
それならば最初から、「自分は本気を出していません」と表現する方が自分に失望しないで済むし周りに対するexcuseになる(と自分で思うことが出来る)。
何かの記事で、アメリカでオバマが大統領になって、人種差別等が無くなって開かれた社会に近づいたのではないかと肯定的にとらえるとともに、成功できない人のあきらめの気持ちも出てきているのでは、というのを読んだ記憶がある。
社会が限りなく平等に近づけば、そういった問題も出てくるという認識が必要だと思う。
自分の事を振り返ってみても、何らかの障害がある方が頑張れる力が大きかったような気がするし、選択肢が最初から絞られていれば逆に、外の世界の選択肢について強く知りたいという欲望が出てきたように思う。

だからといって、不平等な社会でよいと言っている訳ではない。
ただ、言い訳のきかない社会は不平等な社会と比べてどちらが幸せかというのは、平等な社会を成し遂げる前に考えておくべきことだと思う。

まぁ、つまり何が言いたいかというと、機会の平等であれ結果の平等であれ主張する人それぞれのポジショントークがあり、結局は自分が有利な社会を支持するんだろうけれど、逆の社会のほうが幸せな人もいるんだよと頭の片隅にでも思いながら生きていく方が、若干誠実だと思ったりしています。