機会の平等の話

オフ

機会の平等が重要であって結果の平等は各人の努力の結果である、そういう議論を聞くことが多い。私もずっとそう思っている。
だけど疑問に思うことが無い訳ではない。
思うに日本は基本的にすごく平等な社会だし、貧しくてもちょっと調べれば高校なり大学なりの奨学金や授業料免除の情報はたくさんあるし、頑張ればなんとかなる社会、という理想を極限まで高めようとしているし、実際そうなってきていると思う。
階級社会でもないし、あらゆる職業は全ての人に開かれている。

それでは何故いま閉塞感が漂っているのだろうか。
もちろん日本が人口・GDP・企業価値といった分野で芳しくないということもあると思う。
しかし、このまま本当に完璧に機会の平等が成されれば、逆に本気で頑張る人が少なくなるのでは、と思うことがある。
あまりに機会がオープンになりすぎた為に、個人の能力が最大限発揮できない社会になっている可能性があるのではないか。

完璧に機会の平等が保証された世界では、もし何かが成し遂げられなかった場合(例えばxx大学に入りたい、xx株式会社に入りたい、はたまた単純に金持ちになりたい、等)、自分の能力が無かったのか努力が足りなかったという結論になってしまう。
つまり言い訳のきかない社会になってしまうということだ。
それならば最初から、「自分は本気を出していません」と表現する方が自分に失望しないで済むし周りに対するexcuseになる(と自分で思うことが出来る)。
何かの記事で、アメリカでオバマが大統領になって、人種差別等が無くなって開かれた社会に近づいたのではないかと肯定的にとらえるとともに、成功できない人のあきらめの気持ちも出てきているのでは、というのを読んだ記憶がある。
社会が限りなく平等に近づけば、そういった問題も出てくるという認識が必要だと思う。
自分の事を振り返ってみても、何らかの障害がある方が頑張れる力が大きかったような気がするし、選択肢が最初から絞られていれば逆に、外の世界の選択肢について強く知りたいという欲望が出てきたように思う。

だからといって、不平等な社会でよいと言っている訳ではない。
ただ、言い訳のきかない社会は不平等な社会と比べてどちらが幸せかというのは、平等な社会を成し遂げる前に考えておくべきことだと思う。

まぁ、つまり何が言いたいかというと、機会の平等であれ結果の平等であれ主張する人それぞれのポジショントークがあり、結局は自分が有利な社会を支持するんだろうけれど、逆の社会のほうが幸せな人もいるんだよと頭の片隅にでも思いながら生きていく方が、若干誠実だと思ったりしています。


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